ノンフィクション作家・石井光太の新刊『ルポルタージュ。誰が日本語能力を殺すのか?社会の荒波を生き抜く力」としての日本語力を育むために、家庭や学校でできることとは?
国語力の弱さは人生の妨げになる
グローバル化によって社会が複雑化する一方で、日本の子どもたちの日本語力の脆弱性が指摘されるようになって久しい。
近年の子どもたちは、言葉で道を切り開くことが苦手だと、多くの学校の先生から指摘されている。悪い」「えらい」「死ね」といった極端な言葉であらゆることを表現し、他者と無用なトラブルを起こしたり、コミュニケーションをあきらめてフェードアウトしてしまう子どもがその典型例です。
本来、言語とは、人が物事を認識し、想像し、考え、表現するためのベースとなるものです。それを時代に合った形で適切に使いこなせなければ、生きることに支障をきたす。
私が取材した中からやや極端な例を挙げると、2015年、川崎市の多摩川河川敷で17~18歳の少年3人が中学1年の男子生徒をカッターで殺害する事件がありました。
加害者3人は誤解から一方的に憤慨し、殺意がないにもかかわらず「殴り殺せ」という言葉を使って中1男子を呼び捨てにした。そして、暴行を加えながら「殺せ」「お前が殺せ」と言い合い、カッターを押し付け合い、交互に斬りつけて命を奪ったのである。
彼らがきちんと考えることができていれば、そもそも大義名分の取り違えはなかったはずだ。また、「殺してやる」ではなく、「どうしてこんなことをしたのだろう」「納得できないから聞いてみよう」と思っていれば、カッターで斬ることはなかったはずです。
同じようなことは、ごく普通の子どもたちにも当てはまる。
学校のクラスで人間関係が悪くなったとき、「死にたい!」と思うのではなく、「このままではいけない。”死にたい!”と思うのではなく、”なぜ?”と論理的に考えればいいのです。なぜこうなったのか、自分はどうしたいのか、そのためには誰に言えばいいのか、論理的に考えることができれば、学校生活はとても楽になるはずです。
社会に出てからも同じことが言えるでしょう。ビジネスでも、家族関係でも、地域住民との関係でも、言葉を正しく使うことで、物事がスムーズに進みます。逆に言えば、それができないと、いろいろなところでつまずく可能性があるということです。